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フィギュアスケートを死なせたくない……(ブログ版)

フィギュアスケートを死なせたくない……(ブログ版)

芸術家・福山知佐子氏

芸術家・福山知佐子氏のブログ より
 

芸術家らしい素晴らしい感性で浅田選手表現力・芸術性について語っておられるので、転載させていただきました。

 


2010.3.26浅田真央  「鐘」  身体芸術  大野一雄

ここ3,4日、すごく体調が悪く、寝てばかりいて、ほとんどろくに食べられなかったのだが、久しぶりに友人と外食。稚貝のワイン蒸しとエビとホタテのフライ、おいしかった。

ものを見る力について、ほぼ絶対的に信頼をおいている親友に、オリンピックの浅田真央の「鐘」の演技の録画を見てもらった。(友人は、仕事で忙しくて、全くオリンピックを見ることができなかったという。)私は、録画の映像見ただけで、また落涙・・・・・。すると、友人は

「すごい!!・・・・何、これ?!!うわ・・・・・・・・・タラソワってすごいよ。異常だよ。狂ってるよ。」そして最近、私が涙を流しながら「鐘」の話を熱弁する理由が、今、やっと、わかった、と言った。「やっぱり、見なきゃわかんないもんだな。これは、ちょっと、ありえない。」

「これは、凄すぎる。まっっったく、一般向けでない。よくぞこんなプログラムをつくったもんだ。浅田真央はタラソワと絶対離れないほうがいいね。」と言った。

これについて、何か言葉にするとしたら、どうなると思う?と聞いたら、「言葉になんてできないでしょ。他のスケーターとまったく次元が違うんだから。これがフィギュアスケートだなんて思えないようなものでしょ。これが一体何なのかなんて言えないくらいの、ものすごいもの、なんだかわからない何かだ。」と言った。

そして、「今回の浅田真央の理不尽な状況、絶体絶命の状況をタラソワがわかっていてこの「鐘」を選んだのだとしても、それにしてもこのプログラムの、タラソワの、ものすごい情念というのか・・・・単に眼の前のオリンピックで金を獲るため、という目先の目標だけでは、こんな異常にすごいもんはつくれないだろう。タラソワっていったいどんな人生歩んできたんだろって思うよ、この「鐘」を見たら。」と言った。

そうだね。そして浅田真央は、天才的な感受性で、タラソワの意図したものを直感的に、身体的に掴んだ。本当に運命としか言いようのない奇跡的な出会いなんだね。浅田でなければ、こんな恐ろしいものを自分のものにするなんてことはできなかったろうから。でも、なぜかマスコミが、このもの凄さをに認めようとしないのが、すごーく、気持ち悪いのよ。

「一般の大多数が鈍いのは当たり前。キムのほうが滑りがきれいだとか、理由はあとからなんとでもつけられる。でも、これだけの厳しい決断を自ら意志的に選んでそれを実際に生きている浅田真央に対して、少しでもちゃかすようなことを言ったとしたら、それは余計な発言であり、ちょっとおかしい。何か大きな汚い力が働いてるのかもね。こんな極限の、ありえないプログラムやってたら、長くは続かないだろ。それほど「鐘」は人間じゃない次元にいっちゃってる。それに対して、確かに評価は酷すぎる。」

以前、日本が世界に誇る至宝、大野一雄先生の踊りを前に、私の眼前で、「そうとう気持ち悪いもの」と言った(絵画評論の本出してる)人がいたので、眼で見る力が全くなくて(あの恐ろしいほどの美しさ、気高さを感じなくて)も、平気でそういう本書けるんだ、と心底唖然としたけど・・・・鈍い感覚の人はどうしようもないとしても、それにしてもマスコミの妙な態度は解せない。浅田真央のような稀有な才能を潰すようなことをして、ちゃんと評価しないで、いったい誰が得をするんだろうねえ・・・?

「それにしても、(この演技は)いい。氷に引っかかってしまうところさえ、全て含めていい。恐怖を感じるほど凄い。衣装もぴったりあってるし、完璧に思える。本当にいい曲を選んだ。」

 

 

「もし、リアルタイムで、オリンピックでこれを見ていたら、衝撃が強すぎて、ちょっと精神的に耐えられなかったかもしれない。これを見て、採点のおかしさに滅茶苦茶に傷つくのは当然でしょう。滅茶苦茶ストレスたまるよ。」

ストレスで、ほんとに全身痛くなるけど、それでも、その恐ろしい瞬間を見たいと思うのが私の性格なのだ。そこから、その眼で見たものに震撼するような体験を生きたいのだ。


2010.3.28浅田真央 「鐘」   身体芸術 アスリート

私達は、散漫で雑多な日常に生きている。わかりやすくて安心できるもの、はやりのもの、慣れ合い、軽いおしゃべり。そして、ぎりぎりに追い詰められて決断しなければならいところからは、だいぶ手前で日常をこなしていく。

いつからか「アート イコール マーケティング(経済)」になって久しい。お金になるものが良いもの。なんでもあり。とにかく「なんでもあり」である。そしてお金のあるところに人が群がる。アートの価値付けは、それがビジネスになるなら、後付けでなんとでもなる。

それでも、わたしは、希少な才能、凄みのある美しさ、全身を震撼させてくれるようなもの、唯一無二の存在(と私の身体が感じるもの)を、見たい。

007は、誰でも知ってる。皆が大好き(わかりやすい)。だから、これ(ボンドガール)が最高に一般大衆受けするプログラムなんだ、とオーサーは言った。所詮、一般大衆はその程度のものだ、と。(「キムヨナ成長物語」に至っては、もう、(誰が興味を持つのか)意味不明。)

しかし、タラソワはそれに真っ向から、正攻法で挑んで見せた。出来得るかぎりの最も困難なことをやること、生存の危機に対峙した人間の挑戦の姿、ありきたりの日常からは隔絶した、ぎりぎりの生の実存そのものを演じて見せて、わかる人にはわかる、これこそが、本当の、極限のフィギュアスケートだ、と。

ものすごいものを見ると、人は言語不全に陥る。それを人間的な理屈ですらすらと言える場合は、たぶん言葉のほうが、身体を伴わずにしゃべっているのだと思う。

だから、この書きかたでは、少し書きすぎたのかもしれない。が・・・・

 

浅田真央の「鐘」へのごく個人的なオマージュ。

私の眼は、私の身体は、何を見たのか?

自分を固く抱きしめて俯く者。それから、全くの孤独と静寂の中で、重たい鉛の空間を両手で掻き上げる者がいる。なんという不穏。なんという孤絶。そして、身も凍る緊張の空気を、つーーーっと切り裂いて滑ったかと思うと、カッと氷を蹴って宙を舞う。ビュッと鎌鼬のような音がして、銀の炎が炸裂する。着地した彼女はにこりともしない。ただ、何か(眼の前のものではない何か)を一心に見つめている。

全ての重みに耐えるように地に伏しながら、高速回転。ひれ伏したまま、腕を背中のほうに掲げて、水から飛び立つ前の鳥が羽ばたくように高速回転。そして何かを断ち切るように振り掲げた腕を勢いよく振りおろして、立ち上がった彼女は、思いっきり激しい決意と怒りの顔を真正面に向けて、大きく螺旋を描いてて見せる。大きな黒い蜘蛛のような鉤裂きの指が鋭い。強靭な生命力が空気を振動させるような、獰猛な、無垢の生き物が走りだす。

足を高く揚げて旋回。恐怖の花が開く。風に打ちひしがれる巨大なアネモネ。そして強い嵐に翻弄される瀕死の生き物のように、ツイズルから一気に雪崩れ込むステップ。ここからは、もう、私の眼は、完全なカオスに巻き込まれてしまう。

雷鳴があり、頭上で沛然と砕け散るガラスがあり、それらが一斉に打ちつけてくる。無常の雨に打たれてしなだれる全ての花。爛熟の花。未明のおののき。白光するもの。腐りゆくもの。反撥する。うねる。捩れる。のけぞる。ちぎれる。そして炸裂!閃光!閃光!血液は、もはやその場所を留めず、指先にまで心臓が存在するようになる。透明な藍色。ざらつく石灰色。バーミリオン。金属。最も劇的な雲。凶暴な動物。最もエロティークな、最も毅然とした奇跡の彫刻。目眩く、瞬間、瞬間の彫刻。

すべてが、幾重にも、あらゆる空間に同時に存在し、回転し続けた。滑り終わった彼女が天を仰いで両手を高く掲げた時、これらの瞬間瞬間の全てが、浅田真央という、(わたしたちと同じように)生物学的な生を生きる一個の存在に帰属するものだったということに、はっと気付かされて、慄然とするほどだった。

わたし(の眼)にとって、これは、フィギュアスケートの閾を越えたものであった。とにかく、ものすごく異質な、凄いもの。あり得ないもの。

「不可能性(「可能性」ではなく、)に賭ける」と、言葉で言うのはたやすい。でも、誰がそれを生きられるというのか。誰が、こんな恐ろしいもの(身体)を、実際に、見せてくれるというのか?

今回、シロウト眼には、浅田真央ほとんど完璧に見えた。高得点が出て当然と思った。こんなに低い点数がショックであったし、全く不可解である。本当に稀有な才能が抑圧されて、わけのわからない演技が高い点数をもらえるような採点システムを、なんとか改良してほしい、と心より願う。

 


2010.3.29浅田真央 「鐘」  身体芸術  アスリート

もう一度、はっきり書きたい。今回の浅田真央の「鐘」は、アスリートとしても、身体芸術としても、あり得ない次元(と私の身体は、生々しく、リアルに、感じた)。

これがフィギュアスケートなのだろうか!?と度肝を抜かれた、と言ってもいい。(別の明るく楽しいい曲だったら、たぶん・・・私個人は、こんなにも心を奪われることはなかっただろうと思う。)

私は心底惚れこんだもの、震撼したものについてしか書きたくない。

浅田真央の「鐘」のプログラムは、恐怖を感じるほどに、艶がある。侠気(おとこぎ)と、エロスは矛盾しない。極限の生を見せながらも、同時に端正で、豪奢である。

私の身体が、激しく動揺するほどに、このプログラムはエロティークである。

浅田真央は、曲の展開にのせて、空気そのものの動きのダイナミズムまで変化させ、色彩、質感、空間の広がりや、捻じれ、時系列まで変化させて見せた。これを見て「表現力が足りない」などと言う人は、心底俗物根性で、無感覚な人だ。

浅田真央の「鐘」というプログラムについて、なにか批判を言えるような人間は、この世にいないはずだ。そういう次元の作品だと思う。

そして、完璧にやり遂げた。浅田真央本人がそれをよくわかっていると思う。

この奇跡の価値を尊重しないマスコミはおかしい。奇妙で不自然な弾圧を感じる。

ヤフーのトップニュースで、「浅田真央が気づいていない大切なもの」<青嶋ひろの>という記事を読んで怒り心頭に達した友人が、Skypeで電話して来た。

「しかしやはり今の浅田のスケートには、フィギュアスケートとしてまだ足りないものがある。ジャンプもそのほかのエレメンツも「技術」としては完ぺきに近いが、「氷の上で自分を表現する、何かを表現する」というフィギュアスケートのもうひとつの大切な部分が、まだ少し足りない。いや足りないのではなく、それができる力を持っているのに、必要であることに気づいていないのだ。」と<青嶋ひろの>という人は書いている。

浅田真央は、「フィギュアスケートに対する「意識」を目覚めさせ」ないと開花できないんだそうだ。

ヤフーのトップに来るような記事を書く権限を持っているいる人が、こんなに非常識で、無感覚なのだろうか。単に、あの恐ろしい「鐘」を見て、その素晴らしさが感覚的にわからない鈍感な、感覚異常な人だとしても、こんなに僭越な(でしゃばりな)発言をするものだろうか?このようなリスペクトに欠けた発言を、このタイミング(金メダル)でするのは、ライターとしておかしい。

じゃあ、「表現」とは何か、をきちんと言葉にすべきだと思う。

ファンは、肉体的、精神的にぎりぎりを生きるアスリートの言葉を聞きたいのであって、一ライターの主観には興味ない。

この、<青嶋ひろの>という人は、浅田真央に関する本を書いているらしい。蛭のように、アスリートを食い物にする人なのかな、と想像した。

青嶋氏がどういう人か知らないが、直感的には、すごく嫌なもの、不潔なものを感じる。まともな感受性があれば、そしてフィギュアの周辺にいて仕事をしているのなら、選手を大切に思っているのなら、今回の「鐘」の完璧な演技で、最高得点が出ない今の採点システムがおかしいことに激しい怒りを覚えるのが普通だと思う。

文体も、ぞっとするような気持ち悪さが残る。この人は、何も見えていないのに勝手に(しかもねっとりと)自己展開している、または白々しく世論操作をしている、と感じる。

何か強い世論操作、何かの利益誘導のように感じる。なぜそんなことをするのかは、わからないが・・・。



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